女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女
の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟
なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世
に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれ
る>ということが まさしく<受身>である訳を ふと
諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
───やっぱり I was born なんだね───
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返し
た。
───I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね───
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。
僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。そ
れを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとっ
てこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだか
ら。
※著作権に配慮し、詩全部は掲載しません。前と後を省いています。全編読まれたい方は有名な詩なので 吉野弘 I was born で検索してください。
英語の文法を面白がっている中学生と(いうだけでもすごい)、親としての重みや責任感のある父親の会話。生まれるとは?産むとは?双方を問いかける。
この詩の末尾の方で父親が
「お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは」
と言っている。が年譜を見てみると、実際に亡くなったのは吉野が12歳の時である。つまり、フィクションを交えている。が、ここには真実がある。factではなく、truthがある。
確か、英語を習い始めて間もない頃だ
から始まっている。いずれにせよ、12歳で母を亡くすという経験が強烈なものだったことが察せられる。さらに言えばI was bornが受け身形であることに気が付いたのは後年のことかも知れない。それはどうでもいいことだ。
詩人が事実と異なることを書いたとしても、それは小説家が作り話を書くのと同じ行為であって、決して読者を裏切る行為ではない。短歌や俳句でも目の前にある情景を詠んでいるとは限らないのと似ている。