超時空要塞キクロス

キクロスとは菊池市生涯学習センターのことです。友の会の会員が除名覚悟で書いております。

俵万智の散文力~短歌がうまくなりたければ…

逢ひ見てののちの心にくらぶればむかしはものを思はざりけり
               藤原敦忠 
 百人一首でこの歌を知った私は、これは初恋の歌だとずっと思いこんでいた。その人に一目会ったその日から、思い悩む日々が始まった。恋なんて知らなかった昔は、なんにもものを思わなかったなあ――というような意味だと解釈していたのである。

 が、高校の古典の授業で「逢ひ見る」とは、単に顔を見るというようなことではなく、男女が契りを交わすことなのだと知って、びっくり。とするとこの歌は、恋が成就したあとの心を詠んだもの、ということになる。それにしては、ちっともうれしそうじゃない。
 「なーんだ、片思いの歌かと思って共感してたのに。ぜいたくな悩みよねえ。両思いになってもまだ、ためいきが出るなんて。」
 当時、片思いしか知らなかった私は、そう思った。まあ、年齢と経験に応じた解釈だったと言えるかもしれない。

 が、いくつかの恋を経てからは、この歌の気持ちがとてもよくわかるようになってしまった。つまり、恋愛のまっただなかにいるときの、いろんな悩みに比べれば、片思い時代のもの思いなんていうのは、まことに生やさしい。片思いというのは、自分一人の世界である。その閉じた世界のなかで傷ついたり、涙を流したりしていればいい。どんなにつらくても、主人公は自分。そこには一種の甘さがある。

 一方恋愛となると、それはもう自分一人の感情から成り立つものではない。悩みやもの思いは、自分のなかではなく、自分と相手とのあいだに生まれてくる。傷つくのではなく、傷つけられる。あるいは傷つけてしまうことだってある。
 また、片思い時代の悩みというのは、おおむね抽象的なものが多い。それが、現実の恋愛になると、すべてが具体的なかたちとなって現れてくる。たとえば片思いのときには、漠然と「会いたいなあ。」と思い、空を見上げていればよかった。が、恋人同士となると、いつ会えるのか、お互いが今どれだけ会いたいと思っているのか、忙しい相手ならどれほど努力して時間を作ってくれるのか……といったことが問題になってくる。そこに付随してくる感情の起伏は、ただの「会いたいなあ。」とは比べものにならないほど、複雑なのである。

 

・・・・・・・・・・・・・・・(以上、長い引用になって恐縮)

誰しも経験することだろう。最初は「打ちあけようか」「フラれたらどうしよう」と躊躇する。が、晴れて恋人同士になったとしても、相手がどれだけ本気なのかが今度は気になる。

うぶな恋の悩みと、恋を重ねたものの悩みの違いを非常に的確な言葉を選んで書いている。繰り返すよ。的確な言葉を選んで書いている。だからこれが短歌に応用できるのである。小生は短歌を作ることがないが、散文を書くことをお薦めしたい。

その一番簡単な方法がブログである。理解者がどれだけいるか試してみよ。