小学校5年くらいだったと思う。学校では光村図書のものを使っていた。ケストナーだったかフォークナーだったか忘れたが、高名な作家だった。ともかく、その著者が自分の母親の読書姿勢を批判する文章が掲載されていた。
【私の母は、本を読む時に最初の二十ページをまず読み、次に真ん中あたりを少し読んで、それから最後の方を少し読みます。その後、最初から通して読むのです。どういう結末が待っているのか知っておかないと落ち着かないのです。】
こういう内容だった。
確かに、結末まで分かってからでないと読むことができないというのは鑑賞のしかたとしては問題なのかも知れない。
でも、今になって考えてみると、悪い読み方でもなさそうだ、と思う。
例えば読むべき本がたくさんあるのに、衝動買いしたエンタメ小説が1冊ある。上記作家の御母堂のように、初め・中・後ろを読んで「もういいや、つまらない」「またの機会にしよう」と判断するというのも手ではないだろうか。
本当に面白い本は2回3回と読んでしまう。つまり、結末が分かっていることは読者にとって損にならないのである。
歌舞伎、古典落語、あるいは忠臣蔵のようなもの。外国のもので言えば、オペラでもシェークスピアの舞台劇でもオーディエンスは、最初から最後までストーリーを把握していたとしても、やはり観に行く。俳優によって演出家によって(落語家でも歌い手でもいいのだが)違いがある。いわば、結果ではなくプロセスが大事なのである。オーケストラが奏でるチャイコフスキーの同じ曲でも、楽団や指揮者によって違いがある。その違いがマニアには嬉しいのではないか。プロ野球の好きな人間にとって試合の結果だけが興味の対象ではない。試合前の練習も、試合後のインタビューも、またキャンプで行われているトレーニングも、無関心ではいられない。それとよく似ている。
源氏物語は面白い。
今、角田光代版の下巻と田辺聖子エディションの宇治十帖を並行して読んでいるが、やはりストーリー展開は分かっていても、やはり面白い。人間関係が複雑だったり、似た名前どころか同じ名前の人物がいるし、帝(みかど)も右大臣、左大臣も交代するので何が何やら分からなくなる場合がある。人物相関図や、話をダイジェストに纏めたものを参照しながら読んだところで、物語の味わいはまったく損なわれない。
最初の話に戻るが、池井戸潤や東野圭吾あたりが書いた小説なんて結末は知らないほうがいいだろう。しかし、谷崎や川端の小説の結末を知っているからといって、読まないのは勿体ない。あくまでも小生の考え。
本なんて好きに読めばいいのである。
※4年前に書いたものです。